第55回:俺なしでも「ふね」は動く Ver.2 « 個人を本気にさせる研修ならイコア

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パートナーコラム 紺野真理の「海軍におけるマネジメント」
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第55回:俺なしでも「ふね」は動く Ver.2

※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を
復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、
以前に書いたものではなく、海上自衛隊退官後23年を経過してしまいましたが、
現在の私が思い起こし感じていることを書かせていただき、
今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしました。
前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図
というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。
「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。
むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、
主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいります
のであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。

***

またも、俺なしで「ふね」が動いた(「基準の違い」について)

前回、駆潜艇「おおとり」が私なしで動いたことを書きましたが、
それは組織である以上当たり前のことであり、自分がいないと動かないと
思いこんでいるのはただの「勘違い」ということであると思っています。
それは企業においても同様であり、「自分がいないと組織は動かない」などというのは、
ほとんどの場合勘違いなのですが。
とはいえ、その後に、もう一度私なしで艦が動いたことがあります。
それは護衛艦「はるゆき」で勤務していた時のことです。

海上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程及び幹部専攻科過程の口述試験を受験するため、
一時的に「はるゆき」を離れることになったのです。
この試験は、旧海軍でいえば海軍大学校の試験ですから、
その合否は自衛官人生に関わる重大事でもあり、みな必死で勉強をしました。
実際に合格できるのは一部だけで非常に厳しいものでもあります。
4年間に3回の受験機会があり、筆記試験が3日間、口述試験が3日間あります。
筆記試験は母港の横須賀に停泊中に受験することができ、筆記試験には何とか
合格できました。
筆記試験合格者に対する口述試験は当時市ヶ谷にあった幹部学校で行われたのです。
その口述試験の日程が、1カ月半に及ぶ第1護衛隊群の群訓練の真っ最中のこととなり、
私の取り扱いが問題となりました。
試験の日程は群訓練の後半に当たり、前々日に私は江田内(江田島湾)仮泊中に
艦を離れることとなりました。隊司令や艦長からも、「しっかり頑張ってこい」と
温かい励ましの言葉をいただいて受験に行くこととなりました。
私も口述試験受験用に夏の制服を新調したのを覚えています。
それで口述試験は受けられるのですが、試験終了後にも10日あまり四国沖での
最後の対潜訓練が残っています。艦長も悩んだ挙句、
「仕方ないな、艦に帰りようもないから、休暇やるから家で休んどけ‥‥」と
悪気はないものの吐き捨てるように言われたのを今でも覚えています。
この時は、先の駆潜艇「おおとり」の時とは異なり、大型の護衛艦で幹部の数も
多いことでもありますし、自分がいなくとも艦が動くことは「おおとり」での経験から
認識していたつもりでした。
大事な受験でもあるため、私も「仕方ないかな」などと思っていました。
唯一気がかりであったのは、実際の潜水艦を目標として行われる対潜訓練が
予定されていることでした。そんな中、急に隊司令に呼ばれたのです。
司令室に入ると、米国留学経験もあり英語も達者なエリートながらも親分肌で
豪放なイメージの隊司令G1佐、

「水雷長、試験が終わったらすぐに戻ってこい」

私:「はあ、でも戻れないですよね‥‥!」

G1佐:「ばっかもーん、お前がおらんで何の対潜訓練だ、
そんなことなら訓練なんかせんでもいい」

私:半信半疑ながら 「ですよね‥‥?」

G1佐、やにわに受話器を取り上げ、艦橋(ブリッジ)の航海科員を呼び出し、
「四国沖のチャート(海図)を持ってこい」ときました。

その海図を見ながら、

G1佐:「よし、ここに来い」

と指さしたのは、宮崎県にある航空自衛隊新田原基地です。

G1佐:「HS(ヘリコプターのことです)で迎えに行ってやる」

私も驚きましたが、やはり常人とはお考えになることが異なり、
一回りも二回りも大きいことを感じました。隊司令の指示に唖然とはしたものの、
それはそれで理屈が通っており、「戻ってこい」という言葉を意気に感じながら
ありがたく拝聴しました。3日間の口述試験を何とか終えて東京で一泊し、
翌朝、新幹線に乗り博多まで、そこから日豊本線に乗り換え高鍋駅に着きました。
長い長い旅だったことを覚えています。
すぐに艦に戻れるかと思いきや、天候不良のため、ヘリがいつ来れるかわからない
ということで、二晩の宿泊と食事を新田原基地でお世話になり、3日目の朝になって
やっと迎えの「はるゆき」に搭載されているHSS-2B 85号機が新田原基地に着陸し、
私をピックアップしてくれて戻ることができたのです。
この時の嬉しさと言ったら、それはそれは筆舌に尽くしがたいものがありました。
迎え便の機長だったA3佐(当時)と副操縦士だったN2尉(同じく当時)とは、
いまだにお付き合いをさせていただいています。

ただし、この時非常に不思議に思ったことがありました。
いろいろと親切に面倒を見てくれる新田原基地の航空自衛官たちから、
誰彼となく何度も「どこに帰るんですか?」と聞かれます。
「四国沖で訓練をしている護衛艦『はるゆき』です」と言っても、
誰もが怪訝な表情をして、聞き返してくるのです。「呉に帰るんですよね‥‥?」
「いえ、母港は横須賀なので‥‥、呉の港ではなく洋上の『はるゆき』です」
と私が答えても、誰もが、「呉ですよね‥‥?」と自らが納得したいように聞くのです。
あまりに不思議そうな顔をされるので、それ以上、「四国沖の太平洋」と口にするのは
やめにしました。そもそも、飛行場から四国沖の海の上に行く、という行動そのものが、
陸上基地を基準にして考える航空自衛官の彼らの常識では信じられないことのようでした。
物事を捉える基準、考える基準というものが、これほど異なるものであることに
あらためて驚いたところでもありました。
とはいえ、私が江田島で艦を離れて試験を受けている間と新田原で待機していた
計7日間ほどは、「はるゆき」が水雷長である私なしに洋上を航行して
訓練をしていたことは動かせない事実ではあったのですが。

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