第54回:俺なしでも「ふね」は動く « 個人を本気にさせる研修ならイコア

ホームサイトマップお問合わせ・資料請求
パートナーコラム 紺野真理の「海軍におけるマネジメント」
サービス内容事例紹介講師紹介お客様の声コラム会社概要

第54回:俺なしでも「ふね」は動く

※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を
復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、
以前に書いたものではなく、海上自衛隊退官後23年を経過してしまいましたが、
現在の私が思い起こし感じていることを書かせていただき、
今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしました。
前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図
というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。
「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。
むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、
主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいります
のであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。

***

それは、私がまだ25歳の時、広島の呉を母港とする第3駆潜隊の駆潜艇「おおとり」
(今はなき400トン程度の小型艦)に砲雷長として勤務していたときのことです。
呉地方隊のハンドボール競技が実施されたのです。
私は最初に乗っていた「あきづき」の頃から乗組員とともにハンドボールチームを
作っておりました。呉に来て、呉地方隊ハンドボール競技のために、
第3駆潜隊でチームを作るという案内があったので、私も当たり前のように参加しました。
その時代は、海上自衛隊がハンドボールの普及に大きな貢献をしたとかで、
トーナメントで行われる全日本選手権には、海上自衛隊から1チームの参加枠を
いただいており、その当時の呉地方隊というのはその参加チームの常連でもありました。
海上自衛隊のハンドボールは比較的レベルが高いとはいうものの、全日本選手権に出る
メンバーがいる呉地方隊の各部隊が戦うのですから、その頃のレベルは群を抜いていました。
近くには日新製鋼という実業団チームもあり、時々ご一緒させていただいたりもするため、
選手たちの意欲もとても高いものがありました。
とはいえ、選手の多くは20代から30代の若手、中堅であり、優勝を争うのは、そんな若手、
中堅の多くが勤務するわが第3駆潜隊と第36護衛隊、呉通信隊(いずれも当時)という
実戦部隊であるのが毎年のことでもありました。
大会の1カ月くらい前から練習が始まりましたが、秋の駆潜艇術科競技も終わった後なので、
あまり長期の航海も予定されておらず練習にも専念できる予定でした。
ところが、他部隊の何らかの都合で、わが「おおとり」が急に、
1週間程度の対馬海峡における監視行動に出動しなければならないことになりました。
メンバーからは、「試合間近の7日不在は痛いですよ」と言われましたが、
自分のふね(艇)が動くのに私が乗っていかないわけにはいきません。
艇長も私に向かって、「砲雷長、お前は絶対連れていくから」と言われ、部下達からも
「砲雷長なしではこのふねは動きゃせんよ‥‥」などとも言われていました。
ところが、ハンドボールチームは4隻の駆潜艇からなる第3駆潜隊のチームです。
指揮官である隊司令から艇長に、司令の幕僚として勤務している私の2年先輩のI2尉を
代わりに派遣するので、おおとり砲雷長はふね(艇)を降ろしてハンドボールの練習を
させられないか、と打診が来たのです。艇長もかなり悩んだ様子でした。
監視行動ですから対潜訓練や射撃訓練があるわけでもなく、ふね(艇)が安全に走って
監視任務を遂行できれば良いわけです。折角I2尉を派遣してくれるといった隊司令の顔を
立てることも必要だし、ましてや心中穏やかではないと思われますが、
派遣勤務を快く引き受けてくれたI2尉に対する感謝の気持ちも生じます。

結果として艇長も諦めて、私は7日間、「おおとり」を降りることになりました。
ハンドボールの練習継続を半ば諦めていた私でしたが、その決定を複雑な思いで聞きました。
出港当日の朝、岸壁で「おおとり」の見送りをしたわけですが、
実際に出ていくふね(艇)を見て、私自身、何とも言えない寂しい気持ちになりました。
あれだけ、「砲雷長がいないと動きゃせん‥‥」と言ってくれていた部下達も、
上甲板で嬉々として出港準備をしています。
「砲雷長、しっかり練習して優勝せないけんよ」などといって笑顔で出ていきました。
当時の呉では入船(舳先を陸側に向けて)で入港していますから後進で出港していくため、
前甲板にいる彼らの姿が遠ざかっていくのが最後まで見えます。
その姿を見ながら、「あーあ、俺がいなくともこのふね(艇)は動いていくんだ」
という事実を切々と感じたところでした。

結果として、ハンドボールの試合は難敵の呉通信隊を破り決勝に進みましたが、
決勝戦では第36護衛隊とは同点のまま決着がつかず、
ペナルティスロー(サッカーでいうPK戦です)での決着となりました。
最初のスロワーはわがチームのエースI3曹でしたが、わずかに外してしまったのです。
昨年のアジアカップで本田圭佑が最初にPKを外した時、
私の頭にあの36年前の光景が甦りました。
結局、1本の差で優勝を逃してしまったのですが、私にとっては優勝できなかったことよりも、
ふね(艇)を降ろされたこと、そして、自分なしで「おおとり」が動いてしまったことの方が
大きな禍根として残ったような気がしています。

 

Copyright (c) 2024 e-Core Incubation Co.,Ltd. All Rights Reserved.  Web Produce by LAYER ZERO.