※弊社のメルマガに、以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、20年前に書いたものではなく、退職後30年を経過してしまいましたが、現在の私が思い起こして感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしております。前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。
本年1月2日に何とも痛ましい事故が起こってしまいました。羽田空港C滑走路に着陸する日航機(JAL516「エアバスA350」)と海上保安庁の航空機が衝突して日航機が炎上してしまいました。炎に包まれた日航機から乗員乗客379人が全員無事脱出したことは奇跡とも言われていますが、一方で海上保安庁職員5名が亡くなるという残念な結果となってしまいました。原因の分析もされていますが、どんなことが原因であったとしても、それはひとつではなく、いくつかのことが同時に起こっていることと思います。そして、それらの事象が短い1分前後という時間の中で、すべて“Yes”となってしまっているということです。どこかで、誰かが、ひとつの事象について何らかの動きをして、それが“No”となっていれば、その事故は起こることなく、せいぜいヒヤリハットの事例として終わっていたのかもしれません。元日に起きた能登半島地震で、多くの方が亡くなり、いまだ避難先で大変な思いをしている方が多くいることは身につまされることではありますが、こうした自然災害は、「あの時こうしておけば」ということでは避け得ないものであり、人の行動でその発生をコントロールできるものではありません。しかし、今回の航空機事故では、すべてとは言えないまでも、ほとんどのことは人のなしたことに起因しているので、通常通りの指示や行動をしていれば、何事もなく日常と変わらぬ営みを続けることができたのかもしれません。
私には、過去に苦い経験があります。この事故の報道に接した時に、その時のことが事故現場の状況とともにその心情までもが鮮明に蘇ってきました。今回はそのことについてお伝えしたいと思います。これまで何度かこのコラムに詳しく書いてみようと思いつつ、どうしても書くことができなかったことだったのですが、航空機事故の報道に接したことで、あらためて書いてみようという気持ちになりました。
第82回「現場のことは現場にしかわからない」において、その概要について、次のように書かせていただいています。
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第32護衛隊勤務(隊付)として大湊(青森県むつ市)で勤務していた時、私は28歳でした。昭和57年8月1日、青森港沖で大湊地方隊の展示訓練実施中、当隊所属の護衛艦「おおい」が一般客を多数乗艦させて航行中、後部にある32番連装速射砲(3インチ:76ミリ)が空砲を詰めた状態で予定外に発射され、その砲口の先にいた一般客27名と隊員5名が負傷した事故が発生しました。翌8月2日の朝刊の紙面を飾るところだったのですが、たまたまというか何と言いましょうか、その日は新聞の休刊日でした。結果として夕刊に載ったのですが、九州から関東地方にかけて台風10号による大きな水害があったため、限られた紙面となって少しほっとしたものでした。
私の手元に、8月2日の夕刊の記事があります。各紙ありますが、一番大きく取り上げていた読売新聞の記事には次のように書かれています。
『自衛艦で空砲暴発』公開航行中に32人けが」という大きな見出しに始まり、
「1日午後1時30分ごろ、青森港の北約8キロの海上で、編隊航行を一般公開していた海上自衛隊大湊地方隊総監部の第32護衛隊護衛艦「おおい」(〇〇〇〇艦長、1470トン)の後部3インチ砲に込められていた空砲が突然暴発し、薬きょうのふたに使用されていた段ボール紙の破片が、砲の前15メートルに扇形の範囲に飛び散った。このため付近にいた一般市民27人と自衛隊員5人の計32人が、段ボール紙の破片を顔や手足に受けたほか、耳鳴りなどの聴覚障害を受け、青森市内の病院で手当てを受けたがいずれも2、3日の軽傷」
この事故の起こった状況や原因については、隊勤務(隊付)であった私自身の反省も含めて、どこかでみなさんにお伝えしたいとは思っていますが、私の中ではあまりに大きな出来事であるため、私の言葉で語るには、もう少し時間が必要かと思っております。そのため、今回は、事故の詳細や原因等については触れませんが、その時に私が感じた大きなこと、「現場のことは現場にしかわからない」ということについてお伝えしたいと思っています。
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紙面の制約上事故の詳細についてまで書くことはできませんが、事故原因と特定されたことについて書いてみたいと思います。基本的な原因は、A1士という19歳の隊員が、射手としての通常の発射動作として両手で引き金部を握ったからなのです。弾(空砲)はA1士が自ら装填するものであって、当人は装填されていることを知らなかったのです。なぜ計画外に弾(空砲)が装てんされていたのでしょうか。事故後、事故調査員会が立ち上げられ、当時の状況が詳しく調査され、主要事故原因として次のものが挙げられました。
まずA1士が配置につくのが遅れたことです。A1士は、午前中士官室(幹部の執務室兼会議室)での接遇係をしていて、士官食器室でお客様の使ったコーヒーカップ等を洗っていました。その時、艦長から「射撃関係員配置につけ」と艦内マイクで令達されました。A1士はこの号令にすぐに対応しようとして、作業を中断して士官食器室を出たところに、たまたま機関科のF3曹が通りかかりました。F3曹に悪気はなく、日頃の後輩指導の一環といった程度で、「そのまま行くやつがあるか、やりっぱなしにしないでちゃんと食器を拭いていけ」と言ったのです。組織上の上下関係はありませんが、顔見知りでもあり先輩でもあるF3曹からそう言われたA1士は、慌てて食器を拭いてから後部の32番砲に向かいました。この間1分弱ではありますが、この時間差が致命的な状況をつくり出してしまったのです。
前日の打ち合わせで、「状況が変われば手順は変更する」ということが砲台長から説明されていたのですが、A1士はその際も、別な作業に出ており参加していませんでした。32番砲ではA1士が配置につかないので、砲台長が手順を変えて、右砲の射手であるT士長に左砲への装填も命じました。A1士が砲台に配置についたのはその後だったのです。A1士が砲台に来た時に、誰でも良いので一言、「装填しているよ」と伝えればよかったのですが、なぜかそれは誰からも伝えられませんでした。空砲とはいえ、火薬の詰まった砲を発射するというのは、プロの射撃員としても緊張するのは当然のことであり、砲台長以下それぞれが緊張していたであろうことは想像に難くありません。しかし、なぜそれが伝えられなかったのかについては、事故調査においても不明のままでした。A1士は「遅れて申し訳ありません」の一言を発して「配置よし」と報告しました。自分自身が初めて発射の操作すること、更に事前訓練の際から右砲とタイミングをしっかりと合わせて発射することを求められるなど大きなプレッシャーを感じていたところでもありました。そして、A1士は、緊張感を和らげようとしたのか、練習のつもりか、心の中で「発射用意、打て」という号令をかけつつ、引き金部分を両手で握ったのです。その時、突然「ドン…」という音とともに衝撃が走り、32番左砲から弾(空砲)が発射されてしまったのです。
ここまでの状況には、A1士の前日の打ち合わせ不参加、A1士の配置の遅れ、予定を変更しての装填、装填したことをA1士に伝えていないこと、右砲、左砲の発射をぴたりと合わせるようにというプレッシャーが存在したこと、などなどの要素があります。しかし、これらのことが何かのはずみでひとつでも“No”になっていれば、この事故は起こっていなかったということです。
更にもうひとつ重要な原因がありました。これには私自身が深くかかわっていることでもあります。実施計画では、空砲発射の30分前からは、32番砲後方の甲板には一般乗艦者の立ち入りをさせないことになっていました。事故発生の5分ほど前だったと思います。部隊は反転して、大湊地方総監に敬礼するため、総監の乗る輸送艦「ねむろ」と反航する針路としました。「おおい」は前を行く第35護衛隊「とかち」に続いて左に回頭を始めました。その後には、当隊の「きたかみ」「いしかり」が続いていました。90度近く回頭して後続の「きたかみ」が視野に入ったところで、上司の隊司令K1佐が、「隊付、うちもああなっているんだよな…」と私に問いかけました。「きたかみ」は艦橋のまわりや中部甲板には乗艦者がすずなりになっていますが、31番砲の前、32番砲の後方には誰一人入っていない計画通りの状態となっていました。私は「おおい」も同じと思っていましたが、自分の目で確認しようと左のウィング(艦橋横の張り出した場所)に出ました。しかし、そこにはたくさんの乗艦者がいたため、一番前のところから上半身を乗り出して見たのですが、後部の状況は確認できませんでした。後部が見える後ろの場所は見学者ですし詰めの状態です。私は反対の右ウィングに出て再度確認しようとしましたがそこも同じ状況です。乗艦者をかき分けて後ろに行って確認しようか、とは思いましたが、私の中に、「まあ、いいか…」という気持ちが生じたのを覚えています。そこで艦橋に戻って、艦長に「うちも『きたかみ』のように後部に人は入れてませんよね…」と確認をしました。艦長からは、「もちろん、大丈夫だよ、ちゃんとやっているよ…」という返事をいただき、隊司令もそのやりとりと聞いていたので、「司令、大丈夫です」と報告しました。
その1分後くらいだったでしょうか、突然、「ドン…」という音が艦尾方向から聞こえました。私も隊司令も顔を見合わせてしまい、隊司令は、「うちか…?」といって怪訝な顔をしました。すると後部の見張りからの報告が艦橋にいる伝令の口から聞こえました。「ケガ人がいる…」、それだけです。隊司令は私に、「隊付、見てこい」と叫びました。私は首から下げていた双眼鏡をけさ掛けにかけ直して、艦橋後部の旗甲板から続く長いラッタルを駆け下りて後部に向かいました。私の中では、1名ないし2名の乗組員が負傷していると思っており、どの程度のケガなのかを心配していました。しかし、ラッタルを降り切ったところで私が目にしたのは、後部の甲板付近にうずくまっている女性や子供を含む多くの一般乗艦者の姿だったのです。このときの光景と私の中での驚きは今でも忘れることができません。一瞬とはいえ、すべてが止まっているように感じました。気を取り直して近づいてみると、子供連れの女性が顔を血まみれにして座り込んで放心しています。そのわきで小さな女の子が母親の手を握って声を出して泣いています。新聞記事にもあったとおり、結果としては軽傷ではあったのですが、火薬で燃えたボール紙が飛び散って肌についているので、表面がやけどのようになって、多くの方の顔や腕の皮膚は血で赤くなっていました。すぐに食堂に待機している乗組員を呼んで乗艦者を医務室におろすように指示して私は急いでは艦橋に戻りました。報告を聞いた隊司令は驚いたものの、何も言わずに、「すぐに報告して、隊列を離れて青森港に入港するぞ」と言って、CIC(戦闘指揮所)に降りていきました。
ここまででおわかりのことと思いますが、私が艦橋のウィングで一般乗艦者を押し分けてでも、最後部まで行って確認していたら、後部の甲板に乗艦者のいることが確認できたことと思います。そうしたら、私はすぐに艦長に、「乗艦者を後部甲板から前に移してください、急いで」と言うこともでき、艦橋の伝令を通して後部見張りや後部にいる乗組員に、「乗艦者を前方に誘導せよ」と指示をして、乗艦者が負傷することを防ぐことができたと思っています。なぜ、そこまでしなかったのか。すし詰めの乗艦者をかきわけることで反発されることを避けようとしたのか、「そこまでしなくとも、予定どおりやっているんだろう」「艦長が言うんだからいいだろう」と思い込んでしまったのか、自分の中での無責任さ、当事者意識のなさだったのではないか、などなどです。しかし、私がその行動をとってさえいれば、32番左砲が誤発射をしても、多くの一般乗艦者を負傷させることはなかったということは間違いのないことです。計画に反して後部甲板に乗艦者を入れていたことは、事故調査委員会でも重大な事故原因として取り上げられました。調査の過程で、艦橋での私の確認不足について、東京から来た先輩の調査委員に私の反省事項として説明をしました。しかし、調査委員の方々からは、「君は隊勤務であって『おおい』の乗組員ではない。この事故は護衛艦『おおい』の起こしたことで、隊付である君に事故の責任はない」ということとされました。私はそれ以降、そのことを口にすることはありませんでした。
上司のK1佐は事故の2週間後には異動することとなってしまったのです。K1佐は退艦するまでそのことにはまったく触れませんでした。また、退職後にも何度もお会いしていますが、そのことに触れたことはありません。反対に時間の経過とともに、私の中では、そのことがとても大きなこととして膨らんで残ってしまっており、今でも、あの時、私が確認して指示してさえいれば、このような事故にはならなかったという後悔がずっと続いています。それは今でも変わっておらず、海上自衛隊在職時も、退職後にも、年に一度か二度は、この時のことを夢で見て目を覚ますことがあります。
私の責任は公式なものとして問われることはありませんでした。「おおい」では、艦長は業務上過失傷害で起訴されるということですぐに交替され、「おおい」の幹部全員も、2週間ないし3週間で全員が入れ替わりました。結局、その後の業務改善の実施計画、実施状況、更には実施経過と結果の報告等の処理は、「おおい」の乗組員ではないものの、事故を現認しているただ一人の幹部として私がすべて担うこととなりました。時間の経過とともに、総監部の幕僚の方々や他部隊の方々からも、心無い非難、中傷のような言葉もたくさん聞かされました。反論したいことは多々ありましたが、反論する気もなくなっていました。翌年3月第32護衛隊を離れるまで、筆舌に尽くし難い苦しい、つらい思いをしたことが、私に課せられた組織とは別の次元からの無言の懲罰だったのかもしれないと思えてなりません。
羽田空港の航空機事故から始めた話でしたが、私の話で長くなってしまいました。私が経験した護衛艦「おおい」の事故から言えることは、冒頭でも述べたように次のとおりです。
ひとつの事故には原因となる事象がいくつもあり、それが短い時間の中ですべて“Yes“となってしまう。そのうちひとつでも”No“になればその事故は起こっておらず、また、その中には、私が責任を感じたような報告書には載らないものもあるということです。事故を起こさないためには、そのうちのひとつでも確実に”No”となる状態にすることが必要です。ただし、事故が起こらなかったという事実に対しては誰も褒めてはくれません。評価もしてくれないし、事故の生起など想定することもなく、淡々とした日常が過ぎていくだけのことかもしれません。しかし、「安全」や「事故防止」が重要なものとして意識しなければならない仕事や業務遂行においては、決めたこと、決められたことを確実に行う、更には、おかしいと感じたことをそのままにしないで声にして発信することが何よりも大切なことです。事故に至らなかったとしても、ヒヤリハットのような事例をそのままにせず、その都度反省材料として改善を図っていくことが大切だとも思っています。
そして、自らの責任感(使命感)に基づき、当事者意識をもって確実に対処することを日常の中で習慣とすべきなのだと思います。今回の航空機事故の報道に接してみて、基本にのっとった行動、自ら発信する習慣を、日頃から意識していくことが何よりも重要なのではないかと、あらためて思いを深めたところでした。